【江戸幕府300藩】松代藩の家紋は「真田六文銭」!財政難を質素倹約で乗り切る

松代藩とは?

松代藩とは江戸時代、信濃に存在していた藩です。

信濃といえば、ご存知の通り現在の長野県長野市にあたります。

「姨捨山」など、数多くの古典文学の舞台にもなっている場所で、神秘的な土地なイメージがありますよね。

また、大河ドラマ「真田丸」でお馴染みの真田家の領地でもありました。

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藩の基礎情報

石高 10万石
旧国 信濃(長野県)
居城 松代城(松代市)
藩主 森家~真田家
江戸城控間 市鑑間
城主
爵位 子爵
藩主の変遷 森家(・初代藩主 森忠政)→松平(長澤家)→松平(越前家)→酒井家→真田家(・最後の藩主 真田幸民)

川中島藩時代

松代藩になる前は「川中島藩」という名前でした。

関ヶ原の戦いの時期に、森忠政が川中島(現在の北信地方)に入ったことにより「川中島藩」として立藩しました。

そして、街の中心は松代城に置かれました。

忠政の移動と松平家

森忠政は、川中島藩をかなり厳しく統治しました。その分、地元民の不満も大きく、忠政は津山藩に移動となります。

その後、徳川家康の六男である松平忠輝が1616年まで統治しました。

この森家、松平家の二家が治めた期間を「川中島藩」と呼びます。

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真田家と松代藩

1616年、松平忠晶が松代城に入り、藩主になったタイミングで「松代藩」になります。

さらにその4年後、真田信之が上田藩からやってきて藩主になり、明治維新まで真田家が歴代藩主を務め続けます。真田信之がしっかりと基礎を築いたため、松代藩は堅実に長く続くこととなります。

途中の3代目藩主、幸道の時には沼田藩(現:群馬県)の3万石が独立してしまい10石になってしまいましたが、それでも真田家が務め続け、明治維新を迎えています。

初代藩主信之は質素倹約!

真田家初代藩主となった信之は、父・昌幸や 弟・信繁とはまた違った人物でありました。ドラマ「真田丸」では大泉洋さんが演じていましたが、実際はもっと地味な人物であったと言われています。

父や兄のような派手さはありませんが、この乱世に、力ではなく頭脳で能力を発揮します。松代藩に入る前の上田藩時代からしっかりと貯蓄をし、巨万の富を築き上げます。そのお金で、松代藩は乗り切ることが出来たと言っても過言ではありません。

信之の晩年は……

信之は松代藩に入ってからも、真田家の基礎を築くため、経営に尽くします。

その後も、幾度となく財政難に見舞われたものの、信之と同様に歴代藩主は質素倹約で乗り切ります。

中規模の藩に起こりがちな、財政破綻も見られず藩を紡ぎ続けることになりました。

ちなみに信之はとても長生きで、享年93歳です。長い人生の中で、多くの別れも経験しながら堅実に生きてきた彼の人生が、松代藩の礎になっているのでしょう。

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松代藩の家紋「真田六文銭」を解説

松代藩の家紋は「真田六文銭」です。真田銭・六連銭とも呼びます。

もはや真田家の代名詞です。

元々この六文銭は、仏教の意味合いが強く、六道を表しています。

六道とは仏教でいうところの、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上と、輪廻転生する六種の世界です。

三途の川の渡し賃

ただ、真田家がこの紋を家紋や旗にしたのは次の理由からだと言われています。

当時、死者が三途の川を渡るときには六文(300円程度)払う必要があると言われていました。三途の川のほとりに木があって、そこにいる老婆に六文銭を支払います。そうしなければ衣服を奪われてしまうと言い伝えられていました。

要は、六文銭は「三途の川の渡し賃」です。

真田家の覚悟

旅人や戦国時代の武士などは、衣服の裾に六文銭を縫いつけていたと言われています。

真田家が六文銭を家紋にした理由はここから来ていると言われています。「いつでも死ぬ用意があるぞ!」という強いメッセージが込められていたのでしょうね。

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