加藤嘉明の家紋は「下がり藤」の由来を解説|藤堂高虎とライバル関係にあった戦国武将

加藤嘉明

加藤嘉明
 

豊臣秀吉の家臣から徳川家康の家臣になった武将はたくさんいるのですが、その逆で「徳川家康から豊臣秀吉の家臣になった」という経歴を持つのが加藤嘉明です。そんな彼の家紋とこれまでについてまとめました。

 

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ライバル関係にあった加藤嘉明と藤堂高虎

加藤嘉明と言えば、領地が隣同士だった藤堂高虎とのライバル関係が有名ですね。もともと、加藤家は三河(今の愛知県の一部)の松平家康に仕えていました。この松平家康は、のちに徳川家康になる人物です。

 

三河一向一揆が勃発し放浪生活へ

ところが、ある時に徳川家の家臣たちによる「三河一向一揆」という争いが起きてしまいます。三河一向一揆がどうして起きたのかは解っていませんが、とにかく領主の家康に反抗した争いであることはまちがいありません。
これに加藤家も関与していたため、家康の家臣ではいられなくなります。その後、加藤家は放浪生活を余儀なくされました。

 

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秀吉に才能を買われた嘉明

しかし、その時に嘉明の優秀さを目にとめた人物が秀吉に引き合わせました。嘉明に会った秀吉もまた「ただものではない」という勘が働いたのか、嘉明を養子・羽柴秀勝の小姓につけました。秀吉は嘉明をたいそう気に入っていたようで、嘉明が秀勝をさしおいて初陣を飾ろうとしたときも嘉明を庇っています。嘉明もまた、なにかと自分を取り立ててくれる秀吉に報いようと忠誠を誓っていました。

 

秀吉のもとで競い合ったライバル・藤堂高虎の存在

秀吉のもとで力をつけていった嘉明ですが、実はライバルがいました。藤堂高虎の存在です。

藤堂高虎と加藤嘉明は、伊予(愛媛県)を一緒に治めていたことがあります。高虎は松山、高虎は今治をそれぞれ治めており、どうしても意識せざるを得なかった関係です。

 

高虎と競い合った石高はほぼ同じだった

さらに、最初の石高も同じでした。共に秀吉のもとで300石から始まっており、「ここからどちらがどう石高を伸ばすのか」を二人で争っていたとか…。関ヶ原の直後は、ともに20万石。その後も似たような石高で二人は競い合っており、それは高虎が秀吉から家康へと忠誠を誓う相手を変えるまで続きました。

 

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二人の間に芽生えた信頼と友情

このように、高虎と嘉明は周りからも自分たち自信も「ライバル」と意識してきた仲です。しかし、お互いを意識するということは「お互いを知る」ということにもなったのかもしれません。のちに、徳川家康から会津の42万石を与えると言われたとき、高虎は固辞して「自分ではなく嘉明が任にふさわしい」と推しています。

この時、高虎は「私たちの仲が悪いのはただの私ごとである。しかし、国を任せるというのは一大事である」と言い、自分と嘉明の仲に関係なくふさわしい人物をえらぶべきと答えました。

 

高虎の行動にに心を開いた嘉明

このことを知った嘉明は、以後高虎に心を開くようになり、二人はライバルから親友となって支え合うようになりました。長く競い合っていた二人ですが、だからこそお互いにしか解らない絆があったのかもしれませんね。

 

加藤嘉明の家紋は「下り藤」

 

家紋
 

加藤嘉明の家紋は「下り藤」藤の紋は「藤原氏」が使用していた家紋で、「加藤」「佐藤」「伊藤」などの名字は「藤原」から派生していると言われています。ゆえに、加藤姓のひとは藤原氏とおなじ「下り藤」の家紋を使用していることが多いのです。

 

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