第一次上田合戦|家紋で見る合戦シリーズvol.20

大河ドラマ『真田丸』でも描かれていた真田家最大の合戦と言ってもいい「第一次上田合戦」。

真田昌幸の策略がズバズバと当たったことでも知られています。

今回はそんな「第一次上田合戦」を戦を行なった、真田家・徳川家、両家の家紋と共にみていきます。

 

1分で分かる第一次上田合戦

織田信長が本能寺の変によって戦死すると旧武田領は領主のいない空白地帯となっていました。

信長の死後を好機とみた徳川家康が上田・沼田領を得るために、大軍を上田城へ派遣。その数は約7,000。

一方で真田昌幸率いる真田軍は約2,000の兵力で迎え撃ちます。

そして、第一次上田合戦と称される戦が始まり、結果は真田昌幸の策略のより真田軍が圧勝します。

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信長の死後家康との関係が悪化した真田氏

第一次上田合戦が起こったきっかけは織田信長の死からでした。

信長の死後、旧武田領の分割を巡って徳川家康と北条氏の間で取り決めがされました。

内容は上田領は徳川家が、沼田領は北条氏が統治すること。そして、この取り決めに従って真田家に上田・沼田領を明け渡すことを迫ります。

 

一時は家康を手を結んだ真田昌幸

真田昌幸は武田家が滅亡後、織田信長に臣従する道を選んでいました。そして、その後織田信長が本能寺の変で戦死すると領地となっていた沼田領に北条氏が進行してきます。

真田昌幸はこの進行を見て、北条氏臣従する道を選びました。

北条氏に臣従したことで真田昌幸は沼田領を一旦は収めることに成功します。

しかし、1582年に北条氏が再び進行を開始すると、真田昌幸は北条氏を見限り徳川方に寝がりました。

真田昌幸は領地と領民を守るために家康と手を結んだのでした。

 

北条氏に沼田を渡せと指示するも

しかし、徳川家康は北条氏と和睦を結び、先述した上田領は徳川家が統治を行い、沼田領は北条氏が統治する取り決めを行います。

北条氏に沼田領を取り決め通りに渡せと徳川家康が真田昌幸に迫りますが、真田昌幸は断固として拒否します。

そして北条氏と敵対関係にあった越後の上杉景勝と同盟を結んだのでした。

この時、真田信繁(後の真田幸村)を上杉方に人質として出しています。

 

第一次上田合戦

真田昌幸の態度に上田・沼田領は武力でしか得ることができないと感じた徳川家は、家臣の鳥居元忠を筆頭に総勢7,000人の兵を率いて上田城のある信濃国分寺付近に兵を展開しました。

真田軍2000人に対して鳥居軍は7000人

 

  真田軍(戦力約2,000人) 徳川軍(戦力約7,000人)
大将 真田昌幸 鳥居元忠
家紋 真田六文銭  
家紋解説

真田軍(武将)

真田昌幸、真田信幸、真田信繁

徳川軍(武将)

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉

 

(真田六文銭)

真田六文銭の家紋には二つの説があります。

一つは戦国時代当時、三途の川を渡るには六文の渡し賃が必要であると考えられていました。

そのため、六文銭を掲げて合戦に出るということは、決死の覚悟で戦場に出たということです。

六文は現在の価値でいうと300円ぐらいになります。

もうひとつは仏教逸話からきている説です。

六文銭は仏教では許されない殺生の救済を求めるものとされています。

そのため、殺生を行うことになる武将が救済を求めて使用したと考えられています。

 

(徳川家)

徳川家の家紋と言えば「徳川紋」と言われる葵紋が有名です。

葵紋はもともと京都にある「加茂神社」に由来する家紋で、加茂神社と武将の結びつきが強くなったことがきっかけに徳川家の家紋としても用いられてきたと言われています。

 

上田城に隠れていた真田軍の逆襲

倍以上の兵力差がある徳川軍に対して、真田昌幸は奇襲用の兵に200、戸石城に真田昌幸の長男信幸を先頭に800を配備します。

そして残りの1,000を真田昌幸、真田信繁を先頭に籠城として配備します。

 

開戦後、真田の奇襲部隊200が徳川軍に攻撃を仕掛けます。

相手の数が少ないと感じた徳川軍は一気に上田城を落とさんと総攻撃に出ます。すると真田昌幸は奇襲部隊に撤退命令を出して上田城まで徳川軍をおびき寄せます。

 

城下町にある三の丸を落とした徳川軍は一気呵成に上田城の二の丸まで攻め込みます。

じゅうぶんに敵を引きつけた真田昌幸はここで籠城していた真田兵に反撃の指令を出します。

真田昌幸の号令によって真田軍が逆襲に転じます。

 

巧妙な作戦で徳川軍に勝利した真田昌幸

真田軍の思わぬ反撃に徳川軍は後退を余儀なくされました。

上田城から後退した徳川軍を真田軍が追撃します。

さらに、後退していく徳川軍を戸石城に潜伏していた真田信幸の兵が横から攻撃を仕掛け徳川軍を半壊に追い込みます。

 

追撃と信幸の兵によって散り散りになってしまった徳川軍は敢え無く敗走。

敗走していく徳川軍は途中の千曲川に足を取られて多くの兵が溺死しました。上田の地の利を活かした戦法によって真田軍は大勝利を収めました。

両軍の被害は徳川軍が1,300に対し、真田軍は40ほどの被害で済みました。

 

まとめ

多勢無勢の局面を地の利の活かして勝利した真田はその名を天下に轟かせることになりました。

真田家の家紋である六文銭は「決死の覚悟で戦場に出る」という意味合いもあると考えれば、第一次上田合戦はその最たるものと言えるでしょう。

以上が、第一次上田合戦でした。

 

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