[歌舞伎]橘屋の家紋「根上り橘」を解説!代表的な主な名跡・役者まとめ


十六代目 市村羽左衛門さんです。

引用:https://ja.wikipedia.org/

橘屋について

橘屋は市村羽左衛門の系統と、吉澤あやめの系統の、二通りがあります。家紋「根上り橘」を使用しているのは市村羽左衛門系になります。

市村羽左衛門系 橘屋

江戸市村座の座元だった市村羽左衛門代々とその一門の役者が使います。由来は不詳。橘屋では門弟筋もこの屋号を用いますが、平成時代においては「市村」の苗字を使うのは幹部格以上の役者、または門閥の御曹司に限られています(同時代において存在する橘屋門弟筋は何れも「坂東」姓)。

芳澤あやめ系 橘屋

上方歌舞伎を代表する女形だった芳澤あやめ代々が使います。由来は、初代が色子だった頃の贔屓で、女形になることを強く勧めてくれた丹波亀山の郷士・橘屋五郎左衛門の恩を忘れなかった初代が、後年彼にあやかってその屋号を借用するようになったことによります。

 

市村羽左衛門系 橘屋の主な名跡

市村羽左衛門(十六代目以降)、市村竹之丞(六代目)、市村萬次郎、市村九郎右衛門、市村竹松

 

十六代目 市村羽左衛門

1904年(明治37年)1月15日 – 1952年(昭和27年)10月4日。本名市村 勇(いちむら いさむ)。

京橋区築地に生まれ、のち十五代目市村羽左衛門の養子となります。二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたります。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台を踏みます。以後成駒屋五代目中村福助、片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望されました。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目[1])市村家橘を襲名。1947年(昭和22年)2月、東京劇場で十六代目市村羽左衛門を襲名しました。

大らかな芸風で、養父の十五代目とは対照的な芸風を持っていました。『演劇界』昭和27年第一号の巻頭特集では「「御曹子」という表現が、こんなにもピッタリとする役者」「品のよい、おっとりとした落ちつきは無類」「決して才走ってチカチカする役者ではありません」「器量の大きさは、やがて大物に仕上げていくにちがいありません。期待しましょう」と評されました。世話物では養父が得意としていた若衆[1]、時代物では殿様や奥方の役などを得意としました。所作事もよくし、『紅葉狩』の山神、『吉野山』の静御前、『落人』の早野勘平などが当り役でした。もっとも、「特に発揮する役はなかった」とする評がある一方で、舞台ぶりは六代目尾上菊五郎にも評価されていたといいます。逆に戦後間もなく上演された現代劇『銀座復興』での演技は酷評され、これで新作歌舞伎に向かないという評判が立ってしまいました。それでも羽左衛門襲名後は着実に芸が伸び、特に1951年(昭和26年)6月の新橋演舞場での加藤道夫作『なよたけ抄』の小野連や、翌年7月歌舞伎座の北條秀司作『狐と笛吹き』の秀人など、新作の王朝物という新領域で本領を発揮しようとした矢先に病を患い、秀人を演じてからわずか3か月後の10月4日に亡くなりました。48歳没。結果的に、秀人を演じたのが最後の舞台となりました。

 

六代目 市村竹之丞

十五代目市村羽左衛門の外孫、1929-2011。父は四代目中村富十郎、母は舞踊家の吾妻徳穂。
四代目坂東鶴之助 → 六代目市村竹之丞 → 五代目中村富十郎

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橘屋の家紋について


 

家紋:根上がり橘 読み方:ねあがりたちばな

橘は蜜柑の原種で、その香は古代人にも尊ばれました。垂仁天皇のころ田道間守が、不老不死に憧れた天皇の命令で 常世の国に往き持ち帰った「トキジクノミ」が橘とされ、我が国に到来した最初でした。 橘は、木の姿が凛としていることから太刀花とも称されます。

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