真田幸村の名を戦国の世に轟かせることになった『大坂冬の陣』。大河ドラマの題名にもなった「真田丸」はこの戦いで披露されます。
真田昌幸のような戦略家の一面を幸村が見せた戦でもありました。今回はそんな『大坂冬の陣』を参戦した武将の家紋とともに見ていきます。
●1分で分かる大坂冬の陣
慶長16年(1611年)、徳川家康は秀吉の息子である豊臣秀頼と二条城で対面。その時の秀頼の姿は想像以上に立派だったため、豊臣家再興を感じた家康は危機感を強めたとされています。
慶長19年(1614年)11月、家康は「方広寺鐘銘事件」をきっかけに大阪へ出陣した。その数は実に20万人の兵力とも言われています。
籠城を決めた豊臣軍は大阪城の周りに砦を配備します。そして、大阪城の弱点と考えられていた城の南側に砦を築いたのが真田幸村の「真田丸」でした。
真田丸で指揮をとった幸村は敵を巧みにおびき出し、鉄砲隊で撃退させ徳川軍に大打撃を与えました。
真田丸の戦いで大打撃を与えられた徳川軍でしたが、その後も大阪城の包囲を続けると大阪城へ“鬨の声“と挙げて大砲を打ち込み続けました。
この“鬨の声“によって豊臣軍は不眠に陥ったとされています。さらに、徳川軍の砲撃は淀殿侍女8人に命中し、命を落としました。
この光景を見た淀殿は徳川軍と和睦を結び、『大坂冬の陣』は完結します。
■江戸幕府を開いた家康は秀頼を家臣にしようと目論む
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成に勝利した徳川家康は征夷大将軍に任命され慶長8年(1603年)に江戸幕府を開きます。
幕府を開いた家康でしたが、大阪を中心とした西には未だに豊臣家の力は残っており、豊臣秀吉の息子・秀頼が順調に育っていました。
慶長16年(1611年)、徳川家康は豊臣秀頼と二条城で対面します。家康は秀頼を配下に入れようと考えていましたが、秀頼の成長した姿は家康の想像を大きく上回っていたため、家康は危機感を抱いたとされています。
■1614年大坂冬の陣!開戦
豊臣軍(武将)
豊臣秀頼、真田幸村
徳川軍(武将)
徳川家康、徳川秀忠、上杉景勝
慶長19年(1614年)8月、家康が大阪への出陣を決めた「方広寺鐘銘事件」が起こります。
この事件は秀吉の17回忌に大仏を供養する予定でしたが、実施した方広寺の鐘には“国家安康“と掘られていました。
これを知った家康は「自分の名を分割させ呪うもの。」つまり、家康の力が弱まってきていると暗に示したと考えました。
そのため、家康は大阪への出陣を決意します。
慶長19年(1614年)11月、家康は20万もの大軍を引き連れて大阪へと進軍します。
迎え撃つ豊臣軍の軍勢は9万人。実に倍以上の兵力差があったため、豊臣軍は大阪城への籠城作戦で迎え撃つことになりました。
大阪城の周りには砦を建設し、防御を固めた豊臣軍を20万の徳川軍が囲むと、各砦で戦いが始まり本格的な戦がスタートしました。
こうして『大阪冬の陣』は開戦しました。
(家紋)
豊臣家・・・「五三桐」、「五七桐」
桐紋という家紋を用いています。古来は天皇家に使われていた家紋でしたが、武家社会に広がっていき豊臣秀吉が利用しました。今日では日本政府が使用している紋章でもあります。
徳川家・・・「徳川紋」
京都にある「加茂神社」に由来する家紋で葵紋とも呼ばれています。加茂神社と武将の結びつきが強くなったことがきっかけに徳川家の家紋としても使用されてきました。
★真田丸で徳川軍を追い込む真田幸村
豊臣軍の居城である大阪城の弱点は城の南側でした。なぜなら、他が堀に囲まれているにも関わらず、南側のみ陸地と繋がっていたからです。この弱点を補うために砦を立てたのが真田幸村でした。
幸村は「真田丸」という砦を作り、敵の先鋒隊に対して大打撃を与えることに成功します。
幸村の戦法は敵の多くは引きつけるだけ引きつけ、鉄砲隊で撃退させるというものでした。
結果として、「真田丸」での戦いは幸村が徳川軍に圧勝し、徳川軍は次なる手を考えざるを得ませんでした。
■決着は淀殿の判断
「真田丸」の攻略をできなかった徳川軍はカルバリン砲や半カノン砲と呼ばれる大砲を用意し、砲撃を開始します。
この砲撃は“鬨の声“と呼ばれ、日夜大阪城へ向けて放たれていました。そのため、豊臣軍の兵士は不眠に陥ったとされています。
さらに、“鬨の声“による砲撃は大阪城に命中し、その場にいた淀殿侍女8人の命を奪う結果となりました。
この様子を間近で見た淀殿は徳川軍との講和を結ぶことを決断しました。
「豊臣軍として戦った牢人衆たちの不問」「秀頼の身の安全の確保」「大阪城の堀を埋め立てる」などの講和を結び、『大阪冬の陣』は終結しました。
■まとめ
いかがでしたか?
真田幸村が「真田丸」を築造し、徳川軍に圧勝した戦いは一気に戦国の世に響き渡り、名を知らしめる結果となりました。
そして、この『大坂冬の陣』で結ばれた講和は後に『大坂夏の陣』を引き起こす引き金となったのでした。
以上、真田幸村がその名を轟かせ、徳川軍は兵力を見せつけた『大阪冬の陣』でした。
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