【江戸幕府300藩】山形藩の家紋は「水野沢瀉」矢の先のような形状で戦のげん担ぎ

山形藩とは?

山形市というと、蔵王温泉が有名ではないでしょうか。冬はスキーやスノーボードをしに全国から集まる東北最大級のスキー場です。タレントで活躍されている、橋本マナミさんの出身地でもあるんですよ。

幕藩体制が整うと、山形藩は重職から地位を失った幕閣(幕府の最高首脳部)の移転地となりました。そこから藩主が頻繁に変わっていきます。

そんな山形がどういう藩だったのかを見ていきましょう。

山形藩の基本情報

石高 5万石
旧国 出羽(山形県)
居城 山形城(山形市)
藩主 最上家~水野家
家紋名 水野沢瀉
江戸城控間 雁間
城主
爵位 子爵
藩主の変移

初代 最上義光

最後の藩主 水野忠弘

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引用:https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp

(写真は山形城跡である「霞城公園」。国指定城跡として認定され、桜と観光の名所とされています。)

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12家もの藩主が入れ替わる

初代藩主は最上義光です。

仙台藩で有名な伊達政宗の叔父にあたります。57万石を領していましたが、最上騒動により改易になりました。

その後、譜代大名の鳥居忠政が2代に渡り藩主を務めました。

現在も残っている塀や土塁、石垣は藩主となった忠政により整備されたといわれています。

続いて藩主を務めたのが、保科正之。

3代将軍家光に認められ人柄を認められ、26歳にして20万石を与えられました。

8年ほど統治にあたり、そこから重職から地位を失った幕閣の移転地として定着していくことになります。

だんだん領地が縮小していく山形藩

藩主家が交代していくごとに領地は縮小していきました。

天保の改革に失敗した水野忠邦の長男、忠精(ただきよ)が藩主を務める頃にはわずか5万石。城下町の武家屋敷には、空き家が見られるほどだったそうです。

戊辰戦争で庄内藩と密約

忠精の子、忠弘は最後の藩主となります。

始めは新政府側についていましたが、庄内藩と密約を結び、奥羽越列藩同盟に入りました。最後は新政府に降伏し、家老が斬首されました。

忠弘は2万石まで減らされ、さらに近江にとばされました。

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山形藩の家紋「水野沢瀉」を解説

山形藩の家紋は「水野沢瀉」です。沢瀉(おもだか)は水田や沼地によく生えている植物のことです。

葉の形が矢の先をイメージさせることから、戦に縁起がいいという意味で家紋として好まれました。

「沢瀉紋」を使い始めた人は、毛利元就といわれています。

ある戦のとき、元就は沢瀉にトンボが止まったのを見ると、「勝ち草に勝ち虫。勝利は疑いなし。」と言い、軍を奮い立たせたそうです。

トンボは前にしか進むまず、後ろに引かないことから縁起の良い虫とされていました。

そして見事に戦に勝利。それを機に家紋に採用したといわれています。そのほかに「沢瀉紋」を使っていた人に、福島正則、高橋是清などがいます。

武士の思いが家紋に込められているんですね。

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