現在の茨城県笠間市には、「宍戸藩」という藩がありました。2度藩主が交代しましたが、その内の2つは松平水戸家によるもの、更には水戸藩の藩下においてなんとか成立していた財政ギリギリの藩でもありました。
今回は、「宍戸藩」の歴代藩主とその歴史・2度の天領のワケと厳しかった財政状況についてご紹介いたします。
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目次
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宍戸藩ってどんな藩だったの?
宍戸藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 常陸(茨城県) |
居城 | 宍戸陣屋(笠間市) |
藩主 | 秋田家~松平(水戸)家の3家 |
家紋名 | 松平(水戸)家 |
江戸城控間 | 大広間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
宍戸藩の歴代藩主3家
宍戸藩は3つの家が藩主を務めました。2代・3代はどちらも松平水戸家となっていますが、間に天領となっているため2度にわたり松平水戸家が入封したのでした。
宍戸藩の藩主の変移
- 初代藩主……秋田実季
- 最後の藩主…松平頼位
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天領と再立藩を繰り返した宍戸藩
宍戸藩は、常陸国茨城部宍戸(現在の茨城県笠間市平間)に存在していた藩で、藩庁を宍戸陣屋に置いていました。入封後何度か天領となるも、松平水戸家をメインに統治が試みられるも、自然災害などに見舞われ財政は不安定なものでした。
秋田家による宍戸藩立藩→天領
宍戸藩の始まりは1602年、秋田家の秋田実季が5万石で入封する形で立藩となりました。実季の時代は1630年まで継続しますが、罪を得たことにより幕命で伊勢国朝熊(現在の三重県)へ左遷となります。
実季の子である俊季が2代目藩主となりますが、1645年に陸奥国三春藩(現在の福島県)へ転封となりました。ここで宍戸藩は一度天領・水戸領となってしまうのです。
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松平(水戸)家により再立藩するも…
秋田家の2名が藩主を務めた後、天領となった宍戸藩は、1682年に松平(水戸)家により再度立藩となります。「黄門様」の名で知られる水戸藩主・徳川光圀が弟の松平頼雄に1万石を分与する形でした。
しかし宍戸藩は度重なる自然災害により農民の荒廃が続き、改善しようと北陸などから逃散した百姓の入植を奨励しますが失敗に終わってしまいます。
次第に宍戸藩の財政は悪化していき、9代藩主・松平頼徳の時代になると頼徳は切腹を命じられて宍戸藩は改易となりました。
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宍戸藩の再々率藩と財政難
宍戸藩は2度も天領となってしまいますが、その後再び松平(水戸)家により立藩となります。これは朝廷の計らいによるもので、切腹となった前藩主・頼徳の父である頼位の再襲が認められたためでした。1868年の出来事でした。
度重なる自然災害などの被害により財政は厳しく、状況はは水戸藩したの一部として成立していたと言って良いほどでした。その後1869年には版籍奉還で頼位は藩知事となり、1871年の廃藩置県により廃藩、宍戸藩は宍戸県となったのです。
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宍戸藩の家紋は松平(水戸)家の「守山三つ葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「宍戸藩」は2度も天領となり、1度目・2度目共に松平水戸家によって再度立藩された藩でした。しかし財政状況は厳しく、独立した1つの藩というよりも水戸藩の藩下においてサポートを受け、かろうじて成立していた状況でした。
水戸藩は大きな藩として有名なものですので、是非そちらの方もあわせてチェックしてみてくださいね。
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