【江戸幕府300藩】小田原藩の家紋は「那須藤」藩主は家康の重臣大久保家

小田原藩とは?

「小田原」と聞けば、難攻不落の名城・小田原城を想像する人も多いのではないでしょうか。現在の小田原は神奈川県の西部に位置しており、観光地としても人気を誇っています。

海に面しているため、新鮮な海産物やかまぼこも有名ですね。

そんな小田原城を中心とした小田原藩がどのような藩であったのかを見ていきましょう。

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藩の基礎情報

石高 4万5000石
旧国 相模(神奈川県)
居城 小田原城(小田原市)
藩主 大久保家~大久保家
江戸城控間 市鑑間
城主
爵位 子爵
藩主の変遷 大久保家(・初代藩主 大久保忠隣)→阿部家→稲葉家→大久保家(・最後の藩主大久保忠良)

北条家による難攻不落の名城

小田原城周辺は、かつて、城を中心とした華やかな城下町でした。日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれています。

小田原城は北条家が長く統治し、上杉謙信、武田信玄の大軍に攻撃されても陥落しませんでした。

北条家の降伏

しかし、安土桃山時代の1590年、豊臣秀吉が全国統一をした際に攻撃され、北条家は降伏しました。このエピソードはとても有名ですね。

その後、家康が江戸幕府を開きました。そして自分の重臣であり政治に優れていた大久保忠世に小田原城を治めさせます。

関ヶ原の戦い以前までは、関東の中でも最前線だったのがこの小田原城なのです。

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藩の衰退と安定

江戸幕府から大久保忠世が藩主となります。しかし、忠世の子である忠隣が、幕政の主導権争いに敗れ失脚、城下町であった小田原城は城の規模を大幅に縮小されてしまいました。

その後も、阿部家、稲葉家が藩主となったが長く続かず。徳川秀忠が小田原に隠居し、大御所政治を行おうとしたこともありましたが、病気のせいで実現することはできませんでした。

大久保家の再統治

しかし、再び5代目である大久保家が藩主として復帰することで小田藩は安定を取り戻すこととなります。その状態が明治維新まで続きました。

明治4年、廃藩置県により小田原藩が廃止され小田原県に設置されました。さらにその後、足柄県となり、現在の神奈川県小田原市に続いているのです。

小田原藩の経済状況は?

元々は北条家の統治下でもあったため、小田原藩は他の藩に比べて金銭的な余裕があったはずです。しかし、大久保家の歴代藩主が幕府の主要人物として活躍したため、多くの出費がかさんでしまいました。最終的には、思いのほか苦しい経済状態であったと言われています。

また、1707年起こった富士山の噴火で、農作物の生産が不可能になるという事件もありました。

それでも、北条家が治めた場所を小田藩として大久保家が再び立て直したなんて、あっぱれですね。

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小田原藩の家紋「那須藤」を解説

小田原藩の家紋は「那須藤」です。

この家紋は、藤の花や葉をモチーフにデザインされています。日本では奈良時代から、藤の花を観賞する慣わしがあり、万葉集でも藤の花を読んだ歌が数多くあります。

日本で最も多く使用されているのがこの「藤の紋」です。

藤の紋は、種類も豊富ですが日本で最も多いと言われていますので、見たことがあるという方も多いのではないでしょうか。

「上がり藤」と「下り藤」

「藤」ということですからやはり藤原氏系の代表家紋になります。そして権力と地位の象徴でもあります。

また、藤原氏の総氏神は、大和国の春日大社に由来しています。

小田藩大久保家の家紋は藤の花が上がった状態である「上がり藤」になります。

下り藤が藤原家の家紋であったこともあり、一般的には「下り藤」の方が良いとされています。

しかし、自然の摂理に反して家紋では「上がり藤」の方が縁起がよいと考えた人もいたとかいないとか。

どちらにせよ、藤をモチーフとしている、日本らしい素敵な家紋です。

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