【江戸幕府300藩】上山藩の家紋は「丸に片喰」幕末期、佐幕派として活躍

上山藩とは?

上山といえば全国でも珍しい城下町、宿場町、温泉街の3つを兼ね揃えた町で有名ですね。

今では観光客が溢れる情緒豊かな町ですが、その立地条件の良さから戦国時代、伊達氏や最上氏が何度も激しく奪い合う戦いを行い、北の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦では上杉景勝と最上家家臣の里見民部が数万人を巻き込む戦争を繰り広げるなど何度も戦場となった場所です。

最終的には徳川の分家、松平の一族が治める事になりますが、その過程は非常に複雑なもので何度も藩主が変わった場所でもあります。

そんな上山藩が江戸時代にはどういった藩だったのかをみていきましょう。

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上山藩の基本情報

石高 4万石
旧石 出羽(山形県)
居城 上山城(上山市)
藩主 松平(能見)家~松平(藤井)家
家紋名 丸に片喰
江戸城控間 帝鑑間
城主
爵位 子爵
藩主の変移

初代藩主  松平重忠

最後の藩主 松平信安

藩主が何度も代わり、中々落ち着かなかった藩

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引用:http://gazibo.n-da.jp/e161173.html

最上氏の改易と上山藩の立藩

上山藩はその立地条件の良さに加え、温泉街と城下町、宿場町という3つの特性を持った特殊な町並だった為、非常に栄え、藩主である最上氏からも重宝されていました。

しかし最上氏は最上騒動とも呼ばれるお家騒動によって改易され、この熟れた領地に目をつけた徳川家は一族の松平能見家を入れ、上山藩が立藩されます。

安定しない上山藩

松平能見家が立藩した上山藩は間を開けず、蒲生家、土岐家、金森家と様々な家の事情により転封の地として使われ何度も藩主が変わります。

元禄10年(1697年)徳川家の同族である松平藤井家、松平信通が藩主として送られる事でようやく安定を見られましたが、度重なる藩主交代と小さな藩特有の財政難により複数回、百姓一揆が発生し、松平藤井家もその鎮圧に奔走しました。

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幕末では佐幕派として大活躍

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki

江戸末期、幕末期には上山藩は佐幕派の雄として頭角を現し、大坂警備や江戸市中警備にあたるなど幕府からも信頼されます。

薩摩藩焼き討ちで頭角を表す

江戸市中警備にあたった上山藩は、江戸で何度も発生した浪人による放火事件の犯人を薩摩藩の者だと特定すると薩摩藩邸に襲撃する。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を起こし、上山藩9代目藩主信庸が自ら兵を率いて薩摩藩邸に襲撃するなど、その武勇を高めていく。

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今も残る鼓笛隊

余談ですが、この幕末期に実在した軍楽隊、上山藩鼓笛楽隊が上山藩鼓笛楽保存会として今も現存しており、当時の洋式軍隊と軍楽隊の保存会が存在する数少ない地域でもあります。

上山藩の家紋「丸に片喰」を解説

上山藩の家紋は「丸に片喰」です。

徳川家といえば三つ葉の葵、徳川葵を想像する人も多いでしょうが、徳川分家の松平家や同門一族に数えられる酒井家などでは片喰が使用される事が多かったようです。

上山藩の藩主、松平藤井家では丸に片喰、または丸に酢漿草と呼ばれる家紋を使用しており、そのデザインは徳川葵に非常に似ている事から徳川幕府からも信頼の厚い家であることがうかがえます。

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