[歌舞伎]河内屋の家紋「重ね井筒」を解説!代表的な主な名跡・役者まとめ


二代目 實川延若さんです。

引用:https://ja.wikipedia.org

河内屋の由来

大坂の大工の子として生まれた初代實川延若が三歳のとき芝居茶屋・河内屋庄兵衛の養子に出されたことが由来とされています。

 

河内屋の主な名跡

實川延若、實川延二郎、實川延郎

 

初代 實川延若

元芝居茶屋・河内屋庄兵衛の養子、1831–85。実父は大坂の大工。尾上宗家の養子となって尾上梅幸を襲名するが、のち尾上一門との関係が悪化し離縁されています。
實川延次(河内屋)→ 初代實川延二郎(井筒屋)→ 中村延雀(成駒屋)→ 尾上梅幸(音羽屋)→ 初代實川延若

 

二代目 實川延二郎

新字体:実川、じつかわ えんじゃく、1877年(明治10年)12月11日 – 1951年(昭和26年)2月22日)は、大阪出身の歌舞伎役者。本名は天星 庄右衛門(あまぼし しょうえもん)。

初代實川延若の長男として大阪に生まれました。8歳で父と死別。1886年(明治19年)二代目實川延二郎の名で初舞台。十一代目片岡仁左衛門らの引きたてもありましたが、ほとんど独力で歌舞伎役者としての実績を積み、1915年(大正4年)浪花座の『櫻鍔恨鮫鞘(お妻八郎兵衛)』の古手屋八郎兵衛で二代目實川延若を襲名しました。

松竹の初代中村鴈治郎重視の経営方針に合わず、一時東京に行き、二代目市川左團次一座に加わり、『仮名手本忠臣蔵』の師直、『漢人漢文手習始』の伝七などを演じ、その濃厚な上方の芸風は川尻清潭や岡鬼太郎ら批評家に高く評価されました。鴈治郎死後、三代目中村梅玉・中村魁車と共に戦前の上方歌舞伎を主導しました。

戦後は脚が不自由になるも芸格は高まりました。1950年(昭和25年)5月に東京劇場で演じた『山門』の石川五右衛門は歌舞伎史上に残る名舞台で、映画にも記録されました。当時すでに歩くことも困難な状態で、両脇を支えてもらいながら関係者に挨拶するほどでしたが、いざ金襴褞袍に大百日鬘で南禅寺山門上に立つと別人のように立ち上がりました。その五右衛門の迫力は圧巻で、マイクが壊れるくらいの朗々たる声と風格でした。記録映画では客席にジワ(観客が漏らす感嘆のどよめき)が広がるのを聞き取ることができます。同年日本芸術院会員になります。翌1951年(昭和26年)2月22日死去。「最後の上方役者」と呼ばれた延若の死は一つの時代の終わりでありました。

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河内屋の家紋について

 



家紋:重ね井筒

読み方:かさねいづつ


井の字の正体を「井筒」と呼びます。「井筒」とは井戸の地上に出ている部分、あるいはその木組みの部分を指します。井戸は水をたたえた大切な場所であり、汚してはいけない場所、つまり生活に欠かせないという観点から家紋に用いられるようになったと考えられています。「井」の字を図案化した家紋です。

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