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矢島藩とは?
矢島藩があったのは、現在の秋田県由利本荘市矢島の辺りです。秋田県南部の地域で、ここは元乃木坂46の生駒里奈さんの出身地でもあります。そしてローカル鉄道の「由利高原鉄道」、通称「ゆりてつ」が走っていることでも知られます。
「ゆりてつ」は路線の全長が23km、駅の数は12駅というこじんまりとした鉄道です。1両編成のかわいらしい電車で始発駅から終点まではわずかに40分、その途中の車窓からは雄大な鳥海山を眺めることもできます。
そんな自然豊かな土地にあった矢島藩とは、どんな藩だったのでしょうか?
矢島藩の基礎情報
石高 | 1万5000石 |
旧国 | 出羽(秋田県) |
居城 | 矢島陣屋(由利本荘市) |
藩主 | 生駒家 |
家紋名 | 生駒車 |
江戸城控間 | 柳間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 男爵 |
藩主の変移 |
初代藩主 生駒高俊 最後の藩主 生駒親敬 |
鳥海山と菜の花 [引用:写真AC]
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讃岐国17万石の大名が、生駒騒動により出羽国1万石に
矢島藩の藩主は生駒家です。生駒家の出身地は大和国平群郡生駒(現在の奈良県生駒市)で、土地の名前から生駒を名乗るようになったとされています。
かつては讃岐国17万石の大名だった生駒家
1595年(文禄4年)、豊臣氏の重臣だった生駒親正は讃岐国(現在の香川県)に17万1800石を与えられます。そして高松城と丸亀城を築城し、城下町の整備も行いました。この時代、生駒家は讃岐国17万石の大名だったのです。
1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いでは親正は西軍に、その息子の一正は東軍につくことになります。結果は東軍の勝利で、一正の功により高松は没収されることなく守られました。(どちらが敗れても生駒家が存続できるようにしたとも言われます。)
お家騒動勃発!通称「生駒騒動」
しかし、一正の孫の高俊の時代に「生駒騒動」と呼ばれるお家騒動を起こしてしまいます。これは、昔から生駒家に仕えてきた家臣と新参の家臣との間で起きた争いです。
やがてこの争いは幕府にも伝わり、生駒家は家中の不和を取り締まれなかったことを理由に高松城を没収されてしまったのです。高俊は出羽国(現在の秋田県)へ流罪となり、堪忍料として由利郡矢島に1万石を与えられます。1640年(寛永17年)のことでした。
「堪忍料」とは生活を維持していくための費用のようなものです。全てを没収してしまっては次の日から路頭に迷ってしまいますから、当面の生活費として矢島1万石を与えられたのでした。
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矢島藩を立藩、しかしその後に大名格を喪失
1640年(寛永17年)、生駒高俊が堪忍料として矢島1万石を与えられたことで矢島藩は立藩します。高俊はここに矢島陣屋(別称:八森陣屋)を構えました。しかしその後は事実上の軟禁生活を送ることとなり、約20年後に亡くなりました。
2代生駒高清のときに大名格を喪失
1658年(万治2年)、跡を継いだ2代高清は父高俊の遺言により、弟の俊明に2000石を分け与えました。これによって大名格を喪失、生駒家は8000石の「交代寄合」になりました。交代寄合とは旗本の家格の一つです。
生駒家は交代寄合の中でも「表向御礼衆」という大名に準じた格式を持っていましたが、当主は江戸に詰めていなくてはなりませんでした。このため当主自らが領地の監視をすることはできず、領地のことは家臣に任せるしかなかったのです。
しかし任された家臣は、年貢を上げて農民を苦しめるような悪政ばかり行なっていました。それに反発した農民の一揆も起きていて、農民の代表が江戸に上り当主に直訴したことさえもありました。
やっと当主が領地へ
1780年(安永9年)、生駒親睦のときになってやっと領地に戻ることが許されます。今後は参勤交代を行うことになったのです。これにより当主自らが領地の管理を行えるようになり、藩政にも力を注ぐことが可能になりました。
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勤王を貫いた戊辰戦争、200年ぶりに大名復帰が叶う
1868年(慶応4年)、戊辰戦争が起こります。東北地方では「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」という新政府軍に対抗する同盟が組まれ、生駒家もはじめはこの同盟に加盟しました。
しかし家中に勤王論があったこと、また近くの久保田藩(秋田藩)からの呼びかけなどにより、途中から新政府軍に付くことになります。敵に回った庄内藩の攻撃はとても激しく、自ら矢島陣屋に火をつけて撤退することも余儀なくされました。
しかし最後には新政府軍が勝利します。新政府軍についた生駒家はその功を認められ、約200年ぶりに1万5200石で大名に復帰できることになったのです。
ただ1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、これにより矢島藩は矢島県となりました。さらに同じ年に、矢島県は秋田県に統合されます。
矢島藩の家紋「生駒車」を解説
矢島藩の家紋は半円の形をした「生駒車」です。「波引車」「半車」と呼ばれることもあります。なぜこのような半円形になったのか、これには興味深い由来がありました。
1592年(文禄元年)、生駒親正は文禄の役、いわゆる朝鮮出兵に参戦しました。当時は陣幕紋に車輪の形の「丸車」を使用していましたが、戦いの最中、海を渡るときに下半分が波をかぶってしまいます。
車輪を半分隠すほどの激しい波の中、波を蹴って進む生駒軍の姿は壮観でした。このときの戦いの様子を後で聞いた秀吉は「これからは半車を生駒家の家紋にするとよい」と言ったそうです。
それ以降、半円形の「半車」「波引車」を生駒家の家紋として使用するようになったとされます。
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