秀吉が行った行った戦の中でも、あまり語られることのない「鳥取城の戦い」。これは、秀吉の軍師・黒田官兵衛の策略で城と領民を飢え死にさせるというとても非常なやり方の戦だったため、大河ドラマ「軍師官兵衛」では描かれず、他のドラマでもさらりと紹介されるだけで終わることも多いです。「世にも残忍な戦」と言われた、「鳥取城の戦い」について記述します。
●1分でわかる鳥取城の戦い
・鳥取城を囲んだ羽柴秀吉
織田信長の命令で山陰地方を攻めることになった秀吉は、「鳥取城」という城を軍で囲みます。この時は、城主の豊国が降伏すると言ったために秀吉は帰るのですが、この判断に鳥取城の家臣が反発。毛利から吉川経家を迎え、秀吉と戦うことを決意します。
・黒田官兵衛が提案した「兵糧攻め」
再び鳥取城を囲んだ秀吉に、軍師の官兵衛は「兵糧攻め」を持ち掛けます。官兵衛は周辺の米を買い占め、城へつながる道をふさぎました。
・四か月後に鳥取城は降伏
兵糧攻めに耐えられなくなった鳥取城は、四か月後に降伏しました。
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●秀吉に降伏した鳥取城主・山名豊国織田信長の命令で、山陰地方を攻めることになった羽柴秀吉。
その秀吉は、鳥取城というところを兵で囲みます。
これをみた豊国は、秀吉に勝つことはできないと判断し、降伏する道を選びました。
・でも、家臣たちが降伏に反対した
城主の豊国は「秀吉に降伏する」ということでことをおさめたのですが、この判断に家臣たちは猛反発。
秀吉が去るやいなや豊国を城から追い出してしまい、かわりに中国地方の毛利家へ助けを求めます。
※豊国のその後については、諸説あるようです。
これを聞いた毛利家は、縁のある吉川経家を鳥取城に向かわせます。
経家は死を覚悟していたようで、まだ元服もしていない息子に当主の座を譲ったうえで、自分が切腹して果てた時に入る棺桶まで持参して入城したとか。相当の覚悟が伺えます。
●家紋
・五七の桐
豊臣秀吉と言えば、「五七の桐紋」ですね。
これは、後に天皇から下賜されて使用するようになった家紋です。
秀吉は、この桐紋を非常に大切にしたといいます。
・吉川経家
吉川経家の家紋は「丸の内に三つ引き紋」。
「引き両紋」のひとつです。
●秀吉が行った「兵糧攻め」
一度降伏したはずの鳥取城が、手のひらをかえしたことを知った秀吉は、再び軍を率いて現地に向かい、城を囲みます。
「さてどうするか」というところで、軍師の黒田官兵衛が提案したのが「兵糧攻め」。
ここから、世にも残酷な「鳥取城攻め」が始まるのです…。
・米を買い占め、城への道をすべて塞ぐ
まず、官兵衛は周辺の国の米をすべて買い占めます。
さらに、城に行く道は全部塞いで、支援物資を城におくることを阻止してしまいました。
その上で周辺の村たちを攻撃し、農民たちが城に逃げ込むように誘導したのです。
城に行った村民と城の者は、食料を得ることができず次第に飢えていきました。
・経家が切腹~そして鳥取城の降伏へ
周辺の民たちをはじめ、家臣たちも飢えに耐えることができなくなり、鳥取城は日増しに追い込まれていきます。
そして戦が始まってから四カ月がたったころ、経家は「自分が切腹して責任をとるので、家臣と領民は助けてもらえないか」とお願いし、切腹して果てました。
そして、今度こそ鳥取城は降伏するのです。
●まとめ
この「鳥取城攻め」により、鳥取では多くの領民が餓死したと言われています。
それがあまりに酷すぎるためか、秀吉や黒田官兵衛を扱うドラマでもなかなか描かれることがありません。
(余談ですが、秀吉と官兵衛は備中高松城に水攻めもしています。こちらもなかなかに酷い攻め方です…)
近年になり、この悲惨さを訴えたいと「かつ江さん」というキャラが作られたこともあるのですが、あまりにもリアルすぎるので採用は見送られたとか。
いくら戦でも、わざわざ兵糧攻めなどということをしなくても勝つ方法はいくらでもあったのでは?と疑問でなりません。
ちなみに、秀吉は経家に「お前が切腹しなくてもいい。他のものに切らせる」と言ったそうですが、経家はそれを聞き入れず、自分が腹を切って果てました。
もともと城主でもなかったのに、なんとも気の毒な最期です。遺書も書き残し、子供達には読めるようにひらがなで書いていたと言いますから、余計に…。
「これも戦国時代」ということなのでしょうか。
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