「小早川」という名字なので分かりにくいのですが、小早川隆景はあの毛利元就の三男としてよく知られている人物です。そんな彼の家紋とこれまでについて解説します。
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父の毛利元就に似て若くして才能を発揮した隆景
幼いころに小早川家の養子に出された隆景は、父親の元就に似て聡明な頭脳を若くして発揮しており、小早川家が持っていた水軍を手に入れたり、分家だった小早川家を統合して拡大させるなどして毛利家の勢力拡大に大いに貢献しました。
父の元就は隆景の才能を高く評価していたようで、小早川家の水軍を手に入れた隆景を重臣として扱っていたほど。その期待にこたえるべく、隆景も「厳島の戦い」「尼子氏との戦い」で活躍し、毛利家を支えています。
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運も良かった!?
毛利元就の代に栄華を極めた毛利家ですが、天下統一を目指して勢いをつけていた織田信長の勢力に圧倒されてしまいます。兄と一緒に毛利家を支えた隆景ですが、織田信長とその家臣・羽柴秀吉の勢いには勝てず、両軍との戦いで毛利家は劣勢に追いやられていきました。
秀吉が備中高松城(今の岡山県)を水攻めにしたとき、隆景は「織田・羽柴(豊臣)と戦うよりも、和睦交渉をした方がいい」と判断し、和睦の機会を狙っていたそうです。
本能寺の変で事態が急変!?
そんな中、事態が急変します。「本能寺の変」で、織田信長が明智光秀に討たれてしまうという事件が起きました。
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「中国大返し」秀吉との和解に成功
これにより、秀吉は中国攻めよりも光秀討伐を優先せざるを得なくなったのです。秀吉は信長が死んだことを隠したまま、毛利家と和睦して光秀討伐に向かいました。これが「中国大返し」です。
信長が死んだことを隆景の方が早く知っていれば、秀吉を倒せたかもしれません。
でも、秀吉との戦いで疲弊した毛利家が和睦を望んでいたことも事実。信長の死によって、その和睦が成立したことは隆景にとって幸運とも言えるのではないでしょうか。
秀吉の養子秀秋に家督を継ぐ小早川家
その後は秀吉から領地も受け取っていますが、領地をいったん毛利におさめてから受け取るなどして死ぬまで毛利家の武将であり続けました。晩年は、秀吉のところから養子としてやってきた小早川秀秋に家督を譲り、65歳で逝去しています。父の元就と共に、毛利家の名将として長く語り継がれています。
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小早川隆景の家紋は「左三つ巴」
小早川隆景が使用していた家紋は「左三つ巴」というものです。のちに、隆景は豊臣秀吉の養子だった秀秋を養子にし、小早川秀秋を名乗らせています。
そう、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋です。戦国時代の人間関係は、思わぬところでつながるものですね。
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