[歌舞伎]喜の字屋の家紋「丸に中が瓜実の片喰」を解説!代表的な主な名跡・役者まとめ


十四代目 守田勘彌さんです。

引用:https://ja.wikipedia.org/

喜の字屋の主な名跡

森田勘彌(守田勘彌)

名字は十一代目までが森田、以後が守田。

14代目 守田勘彌

1907年(明治40年)3月8日 – 1975年(昭和50年)3月28日

1907年3月8日 東京都に十二代目守田勘彌の四女・みきの子として生まれる。
1914年7月 四代目坂東玉三郎を襲名して歌舞伎座で初舞台。
1926年1月 三代目坂東志うかを襲名。
1932年 十三代目片岡仁左衛門、八代目坂東三津五郎、十七代目中村勘三郎、六代目中村歌右衛門らとともに新宿第一劇場(現在は大塚家具)で花形歌舞伎を上演します。その後、母・みきの弟で叔父にあたる十三代目守田勘彌の養子となります。
1932年 叔父・十三代目勘彌が死去。
1933年1月 東京歌舞伎座で『三日太平記』の小西行長役で十四代目守田勘彌を襲名。
1935年 新派の女優・初代水谷八重子と結婚、夫婦で一座を結成し長くこれを主催しました。
1950年 初代水谷八重子との離婚が成立。二世藤間勘祖の勧めで、その後舞踊家の藤間勘紫恵と再婚しました。
1958年3月 新橋演舞場『仮名手本忠臣蔵』上演時に十七代目中村勘三郎、六代目中村歌右衛門ら主役級の幹部がインフルエンザで相次いで倒れ、勘彌は大星由良助、早野勘平、塩野判官、桃井若狭之助などの代役を無難にこなし、その実力が注目されるようになります。
1966年(昭和41年)の国立劇場開場後は、古典の復活狂言や世話物の通し狂言などに積極的に取り組み、『鳴神不動北山櫻』(鳴神)の早雲王子、『櫻姬東文章』の清玄、『曾我綉侠御所染』(御所五郎蔵)の百合の方と御所五郎蔵、『網模様燈籠菊桐』(小猿七之助)の小猿七之助、『天衣紛上野初花』(河内山)の直侍(片岡直次郎)、『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の繁山栄之丞、『漢人韓文手管始』(唐人殺し)の十木伝七などの当たり役を残しました。
1975年3月28日 死去、68歳。

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喜の字屋の家紋について


 

家紋:丸に中が瓜実の片喰

読み方:まるに なかが うりざねの かたばみ

「片喰紋」は、道にある「片喰」という植物をそのまま家紋にしたものです。黄色い五弁の花を咲かせる可憐な植物で、小さなハート形の葉をつけている草です。酢漿草は「サンショウソウ」という生薬名でもあり、草をもんで傷口にあてると血止めの効果があります。昔話に、酢漿草の葉をすりつぶして鏡を磨くと、想う人の顔が鏡のなかにあらわれるという話があるなど、古来、 日常生活の中に役立ってきました。酢漿草の可愛らしいハート形の三つ葉は女性に好まれ、 西洋では賢婦を象徴する草とされました。日本でも酢漿草の葉を財布に入れておくと、いくら使っても減らないという 迷信から黄金草とも呼ばれて大切にされてきました。

このようなめでたさと、一度根付くとなかなか根絶できないことが「(家が)絶えない」に通じるとして家紋に用いられるようになったようです。

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