三代目中村歌右衛門
引用:https://ja.wikipedia.org/
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加賀屋の由来
初代中村歌右衛門の父・大関俊庵が加賀金沢の出身だったことがその名の由来とされています。加賀屋の主な名跡
中村歌右衛門、中村芝翫、中村福助初代・中村歌右衛門
屋号は初代と三代目が加賀屋、二代目が蛭子屋、四代目以降が成駒屋です。医師の大関俊庵の子として加賀国金沢に生まれました。幼名を芝之助。芸事が好きで享保15年(1730年)ごろから旅役者の一座に加わって、初代中村源左衛門の門人となり中村歌之助を名乗ります。中村歌右衛門と改名したのは寛保元年(1741年)ごろであるといわれています。
地方の芝居で活躍するうち力を付け、翌寛保2年(1742年)11月に京の早雲座の舞台に立ちます。寛延元年(1748年)には大坂に出て、11月『冬篭妻乞軍』の久能谷金吾で人気役者となりました。
その後も歌右衛門の活躍は続き、作者並木正三と提携して『桑名屋徳蔵入船物語』『霧太郎天狗酒盛』『日本一和布刈神事』などの初演をつとめました。宝暦3年(1753年)12月には大坂三条座の『けいせい天羽衣』で山名宗全をつとめ、実悪の頂点に立ちました。宝暦7年(1757年)3月には江戸市村座に出て[注釈 2]、宝暦10年(1760年)には森田座『聖花弓勢鑑』の七変化所作事で大当たりをとり、名実ともに三都随一の人気役者となりました。
このとき、四代目市川團十郎と舞台を共にしたのが縁で、終生変わらぬ友情を育みました。のち歌右衛門の屋号は四代目のときに成駒屋となりますが、これは初代と團十郎との絆を記念して、團十郎の屋号成田屋の一字をとったものです。それまでの歌右衛門の屋号は初代の生国から加賀屋でした。
旺盛な舞台活動の傍ら作者としても活躍し、中村嘉七(なかむら かしち)の名で創作活動も行いました。天明2年(1782年)11月に加賀屋歌七と改名し、歌右衛門の名は門人の初代中村東蔵に譲りました。歌七改名後も舞台活動を続け、寛政元年(1789年)11月京の都万太夫座『刈萱桑門筑紫いえづと』の新洞左衛門が最後の舞台となりました。墓所は石川県金沢市東山の真成寺。
旅役者から大芝居の座頭に出世した立志伝中の人です。清水清玄、蘇我入鹿、日本黙右衛門などを当たり役とし、大らかな花のある芸風でした。眼光鋭く執念深い役柄に秀でていました。時代物、世話物に長じ風姿口跡ともによく、実悪の名人と賞されました。子に三代目中村歌右衛門がいます。
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加賀屋の家紋について
家紋:成駒屋祇園守
読み方:なりこまや ぎおん まもり
読み方:なりこまや ぎおん まもり
祇園守とは京都の東山にある八坂神社のお守りのことを言います。祇園守紋の由来には、三つの説があります。園社の森の図案化、牛の頭部の図案化、キリスト教の十字架の図案化の三つですがいずれも決め手に欠けています。
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