大石内蔵助の家紋「右二つ巴」を解説!赤穂浪士の討入りで大活躍

大石内蔵助という歴史上の人物をご存知ですか?家紋には「巴紋」を使用していたのですが、着目すべきは彼の行動力にあります。

今回は、大石内蔵助が赤穂浪士の討ち入りで活躍したストーリーや、使用していた「右二つ巴紋」についてご紹介いたします。

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大石内蔵助ってどんな人物?

浅野家の筆頭家老だった

大石内蔵助は、播州赤穂藩である浅野家の筆頭家老でした。大石良雄という名前が実名なので、この名前で紹介されることもあります。現代のサラリーマンよりもウンと収入のあるお金持の家庭でしたが、ある事件をきっかけに崩れ落ちることとなります。

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殿中刃傷事件

1701年にその事件は起きます。君主であった浅野長矩が、上役である吉良上野介を短刀で刺してしまったのです。殺すことはもちろんのこと、城内で刀を抜く行為自体禁じられていたので大事件です。

浅野長矩には即切腹という罰が与えられ、帰らぬ人となりました。それだけで済めば本人の問題ですが、赤穂藩は領地を没収されてしまい、大石内蔵助を始めとする藩主たちも浪人へと転落します。

立ち上がった大石内蔵助

生活に困った大石内蔵助は、切腹となった浅野氏の弟である浅野大学へ家督相続を依頼しますが、その話は実現することはありませんでした。

しかし事件から2年弱たった頃、大石内蔵助は赤穂の浪士を47人を率いて本所の吉良邸に討ち入りし、武士の本懐を果たします。これにより浪士たちは全員切腹の刑となってしまったのですが、大活躍を果たしたのです。

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大石内蔵助の家紋「右二つ巴」を解説

では、大石内蔵助が使用していた「巴紋」の「右二つ巴紋」について見てみましょう。巴は基本的には3つの巴で描かれるのですが、大石内蔵助の紋では1つ少ない二つ巴で描かれています。

「右二つ巴」の「右」とは、模様がどちらの方向に流れているかを表しています。この場合、時計回りのように右方向に向かって流れているので「右二つ巴」と言います。

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この流れる渦巻き模様の起源については、はっきりとしたことがわかっておらず、いくつかの説があります。1つは単純に渦巻きや蛇の形に由来するのではないかという説、そしてもう1つは弓手の手首につける鞆の形、あるいは鞆に描かれた文様からきているのではないかという説です。

また、右や左に流れている方向が分かれているのには、平安時代の儀式に用いた太鼓の鞆絵模様に起源すると言います。

巴紋は多くの神社にも使用される家紋

巴紋にはあらゆる種類が存在している上、多くの神社の紋としても用いられています。巴紋を使用していた幕臣は350あまりにもなるので、神紋に巴紋を使った神社は沢山存在しています。

そんな巴紋の特徴や種類など詳しい情報については、下記の記事内でご紹介していますので、合わせてチェックしてみましょう。

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まとめ

大石内蔵助のストーリーと使用家紋についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?

この人物を初めて知った方もそうでない方も、彼の人生に興味を持っていただけたら幸いです。家紋を調べていくと人物の歴史が、そして人物を調べていくと家紋がわかるところが面白いところです。

是非いろいろな武将の家紋についてチェックしてみてくださいね。当サイトでは家紋と合わせて使用していた武将をご紹介していますので、気になる家紋があればチェックしてみましょう!

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