長瀞藩の家紋は「米津羽団扇」領地があちこちに散在?

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長瀞(ながとろ)藩とは?

長瀞藩といえば今の山形県東根市、サクランボの生産量全国一位で有名ですね。

東根市はサクランボ生産量日本一だけでなく、様々な果樹の栽培が盛んで、サクランボの主要品目「佐藤錦」を作出したのはご存知でしょうか? 

2003年にはシンセミアという多数の登場人物が交差する群像劇小説の舞台にも選ばれました。

そんな長瀞藩が江戸時代にはどういった藩だったのかをみていきましょう。

長瀞藩の基本情報

石高 1万1千石
旧国 出羽(山形県)
居城 長瀞陣屋(東根市)
藩主 米津家
家紋名 米津羽団扇
江戸城控間 菊間広縁
陣屋
爵位 子爵
藩主の変移 初代藩主  米津通政

最後の藩主 米津政俊

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遅咲き大名の新天地に選ばれた長瀞藩

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引用:http://www.yamagatakabuo.online

長瀞藩は三河時代から徳川家に仕えていた米津(よねきつ)氏の領地です。

しかし、この米津氏が大名として徳川家に名を連ねたのは貞亨元年(1684)と徳川家康が事実上天下をとった関ヶ原の戦いより84年も経ってからです。

米津家の成り立ちと長瀞藩立藩

この後、大名となった米津氏当主、米津政武は武蔵国埼玉郡久喜(現在、埼玉県久喜市)に陣屋を構えます。

以後代々当主が久喜藩を治めていましたが、寛政10年(1798年)5代目当主、通政の代に出羽国に移り、村山郡の長瀞で立藩しました。

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領地があちこちに散在する長瀞藩

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki

歴戦の雄、米津氏

長瀞藩に立藩した米津家は、大名になった時期こそ遅いですが、三河時代、徳川家康の祖父、松平清康の頃から仕えていました。

家康が今川家の先鋒として桶狭間に従軍した際にも付き従い、三方ヶ原や小松長久手といった重要な戦には全て参加し、様々な局面で家康を影日向に支え続けます。

中でも上杉景勝への攻撃の功績は大きく、米津氏は長瀞を与えられる前に、茨木や千葉など関東各所に領地を与えられています。

長瀞藩の終焉

長瀞藩を治めたからといって、今まで得た領地がなくなるわけではありません。

茨木や千葉など飛び地の領地と長瀞を同時に治めなければいけない米津家と長瀞藩の結びつきは希薄だったようで、大政奉還の際に米津氏は大網藩(現在の千葉県大網白里市)龍ケ崎藩(現在の茨城県龍ケ崎市)に移り、明治維新後、長瀞藩は消滅しました。

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長瀞藩の家紋「米津羽団扇」を解説

長瀞藩の家紋は「米津羽団扇」です。

米津棕櫚とも呼ばれています。

羽団扇といえば天狗の持つイメージが強いのですが、米津氏は藤原道隆の末裔で藤原氏の支流の流れを組む家柄といわれています。

しかし、埼玉県久喜図書館の資料によると、米津氏の家紋からそのルーツをたどると駿河の富士大宮司家(和爾部氏)の一支族が三河の碧海郡米津に移住して米津になり、その後、松平氏に仕えたのではないかと推測されています。

つまり、米津氏の家紋は扇の由来である「神や霊を仰ぎ寄せる」からきており、神仏に仕えていた名残が残りといってもいいでしょう。

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