鎌倉時代の源氏と平氏の家紋とは?源平の戦いから見る家紋の魅力!源頼朝と義経、平清盛の家紋って何?

治承・寿永の乱源平の戦い

武士の台頭で一気に普及した名字(苗字)

平安時代後期~末期にかけて武士の存在が名字(苗字)を一気に全国に広げていくことになった。さらに武士は少しずつ不安定になりつつある世の中で朝廷に使えようとの思いから、武力的な技術を家業として独占し、後継するようになった。

また、743年に制定された墾田永年私財法によって、自らの土地を開発した領主たちは自らの領地を守るために積極的に武装した武士を採用した。そして領主は現在の地主という存在になり、自分の土地を自らのものと示す意味でも名字は一気に広がった。

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一所懸命の地が名字も変えさせた

当時は、武士の名字が所有してる領地に由来するということで、領地が変われば当然名字が変化することになった。今でいうと親が所有してる土地を娘が相続し、娘が結婚すると姓が変わるのでそもそも親が所有していた土地は娘のものではなくなる。という複雑な事象が起こっていました。

一つ当時の実際の事例を元に説明します。相模国三浦郡を支配した桓武源氏系の武士である三浦義継が自らの子供の姓を変えさせたというものです。

 

三浦義継が変更させた子供の姓
長男・・・三浦氏
次男・・・津久井氏
三男・・・蘆名氏
四男・・・岡崎氏

このように平安時代後期から鎌倉時代にかけて一所懸命の土地が変われば、親子や兄弟であっても異なる名字を名乗らないといけないという複雑な事情から、名字は一気に増加したと言われている。

 

名字の普及で広がった家紋を合戦でつけるように

保元の乱、平治の乱以前は敵と味方を赤旗、白旗で区分していたが、源平の合戦になると、参戦する武士の数が一気に拡大してその判別が難しくなった。そこで源氏はそれぞれの武士に白旗と一緒に鎧の下の直垂と旗に家紋をつけるようになった。

 

源平の戦いと家紋

治承・寿永の乱源平の戦い
鎌倉時代に何があったかと言われると真っ先に出てくる「源平の戦い」。
治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)の6年にもわたる大規模な合算です。源平の戦いは正式には「治承・寿永の乱」と呼ばれています。

後白河法皇の皇子である以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とした平氏対して反乱が起こり、最終的には源頼朝を中心とした源氏が勝利して鎌倉幕府が成立する、という結果に至る。

 

源平の戦いの構図
平清盛中心の平氏 VS 皇族・源頼朝中心の源氏

 

 

平氏と皇族・源氏の一族の戦力図

平氏の武将の家紋

揚羽蝶紋
平清盛、平宗盛、平知盛、平重衡、平維盛、平資盛、平忠度、平通盛、平貞能

平氏の家紋とは?
平清盛の家紋とは?

 

皇族の家紋

十六葉菊家紋
菊をモチーフにした家紋で重なっている菊花弁に応じて○○菊紋と呼ぶ。皇室では16の花弁の菊になっているので「十六葉菊」となる。

 

後鳥羽上皇の嗜好で皇室の家紋が「菊紋」に決定

鎌倉時代には後鳥羽上皇が菊紋を好んだことにより身のまわりのものにも、菊紋をつけるようになった。その後の歴代の天皇が使用したために他の華族も使用せずに今では皇室専用紋として使わています。

 

源平の戦いでの皇族

後白河法皇 以仁王

 

源氏の武将

笹竜胆紋源頼政、源頼朝、源範頼、源義経、源希義、源義基、源光長

源氏の家紋とは?
源頼朝、源義経、源氏の2大武将の家紋とは?

 

源平の戦いの源氏の家紋とその他の家紋

源氏の棟梁である源頼朝は、源平合戦の後に白旗を源氏の嫡流家専用のものとして、その他の氏の使用を禁止した。そのため、奥州藤原氏を討伐した後は藤原氏の従軍である常陸の佐竹氏に白旗を使用を禁止し、その代わりに月を描いた扇を与えた。

これ以降、合戦の際には旗指物や陣幕などには家紋が入れるようになり、各武家の目印として家紋が大きく普及した。