天童藩の家紋は「織田瓜」将棋駒の生産量第1位!

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天童藩とは?

天童藩といえば今の山形県天童市、最近はベッドタウンの印象が強くなってきましたが、将棋の駒作りと温泉で有名な場所で、楽天イーグルスの栗原健太選手をはじめ多くのプロスポーツ選手を排出している街でもあります。

しかし、この天童藩、かの有名な織田信長とものすごく縁がある事はご存知でしょうか?

信長の息子の中でも特に無能扱いされ、豊臣秀吉も匙を投げ、ルイス=フロイトに普通の人より頭が悪いと酷評された信長の三男、織田信雄の子孫が作った藩なのです。

そんな天童藩が江戸時代にはどういった藩だったのかをみていきましょう。

天童藩の基本情報

石高 2万石
旧国 出羽(山形県)
居城 天童陣屋(天童市)
藩主 織田家
家紋名 織田瓜
江戸城控間 柳間
城主格
爵位 子爵
藩主の変移 初代藩主  織田信美

最後の藩主 織田信敏

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やらかしは遺伝なのか、悲しい理由で出来た藩

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引用:http://s.tsutaya.co.jp

やらかしの元祖、織田信雄

織田信雄といえば誰も居ない安土城を勝手に全焼させ
織田信長の正当な息子でありながら清州会議では後継者候補にすらされず
領土拡大の為の移封を拒絶し加増が無くなり
関ヶ原では最後まで旗色を鮮明にしないなど、色々やらかしましたが最終的に徳川政権で5万石を拝領しており、悠々自適な生活を送り、最後は京都で隠居後に亡くなります。

信雄の子孫と天童藩の誕生

信雄の四男、信良は上野国小幡の2万石を信雄の隠居時に分知され、信良は領地を治めると共に二代目将軍徳川秀忠の三男に娘を嫁がせるなど徳川幕府とも深く繋がりを持ちます。

しかし七代目信邦の代に起こった明和事件に巻き込まれる形で当主の信邦は蟄居させられ、弟の信浮は出羽高畠に移封されます。

そして信浮の九男、信美が天保元年(1830年)高畠から拠点である藩庁を天童に移した事で誕生したのが天童藩です。

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起死回生は将棋の駒

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引用:https://images-na.ssl-images-amazon.com

貧困を極めた天童藩の武士たち

天童藩はわずか2万石という小さな藩です。
飢饉による収入減や紅花の専売に失敗するなど財政の立て直しに何度も失敗します。
その財政難を凌ぐための苦肉の策として、家臣たちの棒禄借り上げました。
つまり家臣の給料を一時的に藩が借りる為に支給停止するという現代日本では考えられない施行が敷かれたのです。

加えて厳しい倹約令も施行されるという家臣、特に階級の低い者たちの生活は貧困を極めていきます。

家老、吉田守隆の気遣いにより出来た特産品

そんな苦しむ藩士たちを見て家老の吉田守隆が米沢藩より将棋の駒作り職人を指導者として呼び寄せます。そして内職で作り始めたものが今では国内生産の九割を占め、特産品になった将棋の駒です。

これによりなんとか生活基盤を確立した天童藩はその後、明治維新後に新政府に対し反乱し、領地を1万8千に減らされてしまいます。

明治4年まで残り、廃藩置県で一時天童県が設けられるもわずか数ヶ月で山形県と合併、その名を市として残すことになります。

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天童藩の家紋「織田瓜」を解説

天童藩の家紋は「織田瓜」です。

五つ木瓜紋などと呼ばれる事もあります。

五つ木瓜紋といえば他にも沢山の武家が扱っており、有名なもので有馬瓜、大村瓜などがありますが白をベースに黒い瓜でこの形のものは織田瓜だけです。

この家紋は名前から連想できますが、戦国時代の革命児、織田信長が使っていたものの一つで信長が最も好み、生涯で最後まで一番使った家紋です。

その為、時代劇は勿論、マンガやゲーム、教育番組に学校の教科書など様々な場所で目にする、日本で最も有名な家紋の一つです。

つまり、この家紋を使っている天童藩は織田家の一族であり、信長の正当な後継者である証拠でもあります。

織田信雄といえば無能扱いされる一方、信長に深く愛されていた事でも有名ですので信雄やその子孫にとってもとても大切で想い出深い家紋といっていいでしょう。

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