新庄藩の家紋は「丸に九曜」小大名からの長い道のり

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新庄藩とは?

新庄藩があったのは、現在の山形県新庄市の周辺です。新庄市は山形新幹線の終着駅「新庄駅」がある街で、市の公式イメージキャラクターとして天狗の「かむてん」が活躍しています。

この「かむてん」をデザインしたのは、「幽☆遊☆白書」や「HUNTER×HUNTER」などの漫画を描かれた漫画家の冨樫義博さんです。冨樫義博さんは生まれも育ちも新庄市なんです。

そんな冨樫義博さんの出身地でもある新庄市にあったとされる新庄藩、いったいどんな藩だったのでしょう。

新庄藩の基本情報

石高 6万8000石
旧国 出羽(山形県)
居城 新庄城(新庄市)
藩主 戸沢家
家紋名 丸に九曜
江戸城控間 帝鑑間
城主
爵位 子爵
藩主の変移 初代 戸沢政盛

最後の藩主 戸沢正実

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小大名だった戸沢家を救った「鬼九郎・戸沢盛安」

新庄藩の藩主は戸沢家です。かつては陸奥国の滴石庄(現在の岩手県雫石町)を支配しており、雫石城の城主でもありました。その後、出羽国へも勢力を伸ばしていきました。

かつての名門も時代は流れて小大名に

戸沢家が出羽国(現在の山形県、秋田県)に勢力を伸ばしていったのは、鎌倉時代と考えられています。かつては出羽国の名門と言われた時代もありました。

しかし戦国時代になる頃には、角館付近を支配するだけの小大名になってしまっていました。

そんな戸沢家に1566年(永禄9年)、運命を変えるひとりの男の子が生まれます。この男の子こそが、のちに「鬼九郎」「夜叉九郎」とも呼ばれることになる勇将・戸沢盛安でした。

「鬼九郎・戸沢盛安」の活躍、しかし、、、

盛安は13歳で家督を継ぐと、目覚ましい活躍をします。いくつもの合戦で勝利をし、本拠地の角館を中心に戸沢家の支配地域を拡大していったのです。

さらに東北地方の情勢だけでなく中央の動きも把握していて、織田信長に鷹と名馬を送っています。豊臣秀吉の小田原征伐の際には、東北地方の大名の中でいち早く参陣しました。このことで秀吉に賞賛され、土地の支配を認められます。

しかしここで悲劇が起こります。小田原城落城を目の前にして、盛安は突然病死してしまったのです。享年25でした。

馬に乗って一人で敵の集団に突っ込んでいく荒武者であったとされる一方、捕虜を斬ることなく逃がしたり、部下を大切にする人柄でもあったと言われます。

「最上公園の桜」の写真

最上公園(新庄城址)の桜
引用:やまがた観光情報センターhttp://data.yamagatakanko.com/photogallery/kanko_imglist/01nat.html

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最上家の家中騒動により、新庄の地に移り新庄藩を立藩

盛安の死後は弟が家督を継ぎました。そしてその後を継いだのが盛安の息子、戸沢政盛でした。

最上家の家中騒動が勃発、戸沢家は新庄へ

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、戸沢家は東軍として戦い勝利し常陸国松岡(現在の茨城県高萩市)へ移ります。この際、消極的な戦い方をしたとして石高は減っています。

そんな政盛ですが、徳川氏の家臣であった鳥居忠政の娘(妹とも)を正室に、息子を養子に迎えます。こうして徳川氏との結びつきを深めていったのです。鳥居氏と親戚関係になったことで、本来なら外様大名のはずが譜代大名として扱われるようになりました。

1622年(元和8年)、山形藩主の最上家が家中騒動を起こして土地を没収されます。これを受けてここに移ることになったのが鳥居氏で、鳥居氏と親戚関係にある戸沢家も新庄に移ることになりました。

そして戸沢家は6万石の大名として新庄藩を立藩します。政盛は新庄藩の初代藩主となり新庄城を築城、新田開発・鉱山開発・市場改革など領内の整備も進めました。

その後は藩の財政が悪化するも改善

政盛が亡くなった後も藩政は安定し、1700年ごろに新庄藩は最盛期を迎えます。しかしその後は財政管理に無駄が多くなり、また大きな飢饉が3度もこの地方を襲ったことで藩の財政はかなり悪化してしまいました。

財政を立て直すための改革は困難を極めたようです。それでも1848~54年の嘉永年間に家老の吉高勘解由が行なった改革により、なんとか持ち直すことができました。

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戊辰戦争では途中から新政府軍側に

1868年(慶応4年)に戊辰戦争が起きます。新庄藩ははじめ奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と戦いました。しかし久保田藩(秋田藩)の呼びかけによって近隣の本荘藩、亀田藩、矢島藩などと連合を組み、途中から新政府軍に付くことになります。

この突然の決定に、これまで味方として新庄藩のために戦ってきた庄内藩は激怒します。直ちに新庄藩を攻撃し、新庄城を攻め落として城下町に火を放ちました。折からの強風により、城下町の大半が焼失したと言われます。

藩主の戸沢正実らは慌てて久保田藩に逃げ込み、領地は新政府軍の反撃が始まるまでの70日間、庄内藩に占領されてしまったのでした。それでも最終的に勝利し、新政府軍についた新庄藩は1万5000石を加増されます。

1871年(明治4年)、廃藩置県により新庄藩は新庄県となり、その後は山形県に編入されて現在に至ります。

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新庄藩の家紋「丸に九曜」を解説

新庄藩の家紋は「丸に九曜」です。

「細輪の内に九曜」と言われることもあります。九曜紋というのは中央の星の周りを8つの星が囲んでいる図案です。

九曜紋は妙見信仰からきていると考えられ、北斗七星を信仰することから北斗信仰とも呼ばれます。九曜紋を使った家紋は他にも千葉氏、伊達氏などいろいろなところで見られます。

戸沢家にはこの「丸に九曜」以外にも、「鶴丸」や「戸の字」と呼ばれる家紋もあります。

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