二本松藩とは?
二本松市といえば日本100城にも選ばれた「二本松城」がある福島県を代表する城下町です。駅には餃子がおいしい店もありますよね。最近ではオペラ歌手の「樋口達哉」さんが観光大使に就任しました。
二本松藩で欠かせないのが丹波家。戦国末期~江戸初期に領主が複雑に入れ替わりましたが、1643年以後を統治しました。
そんな二本松が江戸時代にはどういう藩だったのかを見ていきましょう。
二本松藩の基礎情報
石高 10万石
旧国 陸奥(福島県)
居城 二本松城(二本松市)
藩主 松下家~丹波家
家紋名 丹波直違
江戸城控間 大広間
格 城主
爵位 子爵
藩主の変遷 初代 松下重綱
最後の藩主 丹波長裕
戦国のさまざまな経過の末、丹波家が長らく統治
居城は霞ヶ城の異名を持つ二本松城。
上杉氏が米沢に移封されると、会津に加藤嘉明が40万石で入り、その娘婿である「松下重綱」が大名として5万石に加増されて二本松に入ります。そして会津から独立する形で、二本松藩が誕生しました。
重松が亡くなると、二本松は一時的に加藤氏領に戻ったが幕府は二本松領3万石を没収、新たに丹羽氏が10万石で配置換えされると、新田開発や煙草、藍、紅花など産物の栽培推進により国力アップしました。
12歳~17歳が活躍、そして戦死。「二本松少年隊士」
当初こそ順調な経営状態でしたが、次第に農業力が低下し大規模な「一揆」が起こり、幕末にかけて長期的な財政難に苦しみました。
戊辰戦争では先頭に立って新政府と対峙し、二本松城の攻防戦では「少年隊士」が16名の悲惨な死を遂げています。
二本松藩の家紋「丹羽筋違」を解説
二本松藩の家紋は「丹羽筋違」です。
この家紋は「違棒(ちがいぼう)」又は「直違紋(すじちがいもん)」といい、大隣寺の寺紋にもなっています。
丹波家の歴代藩主の墓石、灯籠にも刻まれています。家紋自体も「☓」と、非常に分かりやすくて覚えやすいですよね。
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