盛岡藩の家紋は「南部鶴」東北巨大勢力のひとつ

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盛岡藩の基礎情報

藩名 盛岡藩
エリア
北海道・東北エリア
石高 10万石
旧国 陸奥(岩手県)
居城 盛岡城(盛岡市)
藩主 南部家
家紋 南部家家紋
家紋名 南部鶴
江戸城控間 大広間
国主
爵位 伯爵
藩主の変移
南部家
初代藩主 南部利直
最後の藩主 南部利恭

甲斐源氏の血脈を継ぐ東北巨大勢力

藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれています。
現在の岩手県中部から青森県東部を領し、東北北部広域を治めていました。

八戸藩と七戸藩を支藩においていましたが、独立志向の強い八戸藩とはたびたび対立していました。

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源義光を起源とする名族南部家

甲斐源氏の流れを汲んだ始祖・南部光行が源頼朝の欧州藤原氏征服で功績を挙げ、現在の青森県南部町に最初の城である平崎城を築きました。

後に青森県三戸市に三戸城を築城し移転します。

三戸城

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「三日月の丸くなるまで南部領」

南北朝期には拠点を甲斐国南部郷から北東北に移します。
優れた戦国大名とされた24代当主晴政の代で更に領土を拡大しました。

確立された南部領は広大で、三日月のときに南部領に入ると、通り抜ける頃には満月になっていると言われたほどです。

実質的には晴政の婿養子である信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が大名としての藩祖となります。
小田原の陣では大浦(津軽)為信より遅れて参陣したことで津軽藩の独立を許す流れとなってしまいましたが、失った津軽3ヶ郡の代替地を含む9ヶ郡10万石を安堵されました。

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一揆鎮圧、盛岡藩主に

信直の子・利直は関ヶ原の戦いでは東軍に属し出陣しましたが、伊達政宗が引き起こした一揆を最上氏と協力して鎮圧する羽目に。

初代藩主・南部利直

その後、初代盛岡藩主となると居城を盛岡に移し、鉱山の開発を進めて財政の安定を図りました。

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幕府に認められ高直し

藩が発足してから長らく表高10万石とされていましたが、内高はこれより大きく、幕末になり表高20万石に高直しされました。

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盛岡藩の家紋は「南部鶴」

 

南部氏の家紋は「対い鶴に九曜」からなっています。元々は武田氏族らしく「割菱紋」でしたが、室町時代に南部守行が秋田の安東鹿季と戦っているときに二羽のツルが飛んできて、その縁起を担いで兵を進めたところ勝利することができました。

これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたそうです。

九曜紋は、南部氏が北辺に領地を持っていることから、「妙見信仰」に基づいて「九曜」を用いるようになったと言われています。

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